台湾プロ野球データベース コラム集

ホームページ「台湾プロ野球データベース」(http://cpbldatabase.jimdo.com/)のコラムを掲載しています。

CPBL歴代最強外国人野手TOP10

 CPBLは創立当初から外国人枠を導入し、リーグのレベル向上のためにこれまで約30年間で1000人を超える外国人選手がプレーしてきた。*1外国人選手はチームの浮沈を握る存在であるがゆえ、登録と解雇が頻繁に行われるのが特徴である。

 また過去にTML(台湾大連盟)とリーグが分裂していた時期は選手の供給不足が問題となり、98年~99年には「支配下登録制限12人 1試合の出場7人 同時出場4人」まで枠が拡大されるなど、人材確保の観点から外国人選手の獲得が盛んに行われた歴史もある。

 今回紹介するのはそんな1000人を超える外国人選手の約25%を占めていると言われる外国人野手の歴代トップ10である。なお、今回はランキングを決定するにあたり以下のような基準を設けた。

 

・2シーズン以上CPBLでプレーした選手(途中加入、途中退団のシーズンも含める)

CPBLでは昔の野手のWARが算出されていないため、毎シーズンのwRAA*2を合計し、平均した数値の高い順にランク付けする。

・wRAAはCPBL STATSが算出しているものを参照。

 

 ただでさえ野手は相対的に少なく、2シーズン以上のプレーという縛りを設けたことでかなり対象選手は絞れてしまう結果となったが、やはりトップ10には強烈なインパクトを残した、或いは安定感ある活躍を続けてきた選手たちが名を連ねた。それでは早速ランキングを見ていこう。

 

 

德伍(ロバート・ウッド) 在籍:兄弟(97~99) OF

wRAA平均:44.30

 日本の野球ファンには聞き馴染みがない選手だが、3年間安定して走攻守で高いレベルのパフォーマンスを見せ、見事1位に輝いた兄弟の外野手。88年のMLBドラフトで1巡目指名を受けジャイアンツ入り。91年には3Aに到達しその後は中距離ヒッターとして出場機会を得て、91~93年までMLBで47試合に出場。しかしMLB通算は打率.183 1HR 7打点 OPS.503とメジャーの壁は厚かった。96年にメキシカンリーグでプレー後、兄弟入り。来台1年目の97年は打率.373 139安打 94打点で首位打者最多安打、打点の三冠を獲得。前後期制が廃止された98年はチームが5位から17ゲーム差と圧倒的な最下位に終わったシーズン(当時は6球団)だったが、ウッドは打率.321 19HR 79打点 OPS1.006と傑出したパフォーマンス。99年は開幕から打棒が爆発し、開幕14戦で8HRをマーク。その後は勢いが衰えるも投高打低のシーズンだったことも幸いし19HRで本塁打王のタイトルを獲得。兄弟象として本塁打王のタイトルを獲得したのはこのウッドだけである。オフに家庭の事情を理由に退団。00年にはKBOリーグ・ロッテでプレー。前年に大活躍したフェリックス・ホセの穴を埋める活躍が期待されたが、35試合 打率.255 1HR 9打点 OPS.692と台湾時代のような打棒は発揮できず5月に解雇され、現役引退。

 ウッドが在籍した97~99年は兄弟が台湾プロ野球初の三連覇を達成した92~94年の後の過渡期にあたり、選手としてのピークを過ぎた30代の台湾人野手がレギュラーを張る中で、際立った活躍を見せていた。安定感ある打撃が最大の武器で、誘い球に手を出すことのないアプローチの良さも投手にとっては厄介だった。

f:id:cpbldatabase:20200922161506j:plain

*3

 

路易士(ルイス・デロスサントス) 在籍:兄弟(94~96) 3B

wRAA平均:30.07

 日本のファンには「台湾のイチロー」の愛称でお馴染みの選手。88年に21歳でメジャー昇格も、通算55試合の出場にとどまり多くを3Aで過ごし、また3Bとしても長打力不足を露呈していた。94年に当時のCPBLの外国人選手としては最高額の月給7000USドルで兄弟に入団すると、全試合に出場し打率.358 14HR 64打点 OPS.940をマーク、チームの三連覇に貢献。翌95年は打点王最多安打、96年は首位打者を獲得。3シーズンの通算打率.361は、1000打席以上立った選手ではダントツの1位である。97年は台湾での輝かしい実績を引っ提げて巨人に移籍。当時巨人はガルベスブリトーと兄弟経由での外国人選手獲得が一定の成功を収めており、その流れでルイスも長嶋茂雄監督直々の入団テストを経ての入団だったが、NPBではその打棒を発揮できず。そして打撃以上に不評を買ったのが3B守備で、基本さえおぼつかないお粗末ぶり。結局39試合で打率.237 0HR 14打点 OPS.589という不振で退団。その後兄弟に復帰する予定だったが給与面で折り合いがつかず、TMLの生活雷公で2シーズンプレー。98年には首位打者打点王の二冠を獲得するなど、兄弟時代の輝きを再び取り戻した。00年にメキシカンリーグでプレー後、01年はKBOリーグ・ヘテ(シーズン途中にキアに名称変更)に入団、守備に見切りをつけられた形で「4番・DH」として主に起用され、打率.310 26HR 107打点 OPS.874の好成績。02年はメキシカンリーグ2球団-オリオールズ3A-米独立リーグでプレー、03年にイタリア・ネットゥーノでプレーし現役引退。その後は約6年のブランクを経て09年にメキシカンリーグの球団で監督、翌10年から現在までブルワーズのマイナー・ドミニカンサマーリーグで打撃コーチを務めている。

 NPBでの成績が悪い意味でインパクトがあったため、過小評価してしまいがちであるが、3年間大きな離脱もなく3Bのレギュラーを守り通算打率.361、通算OPS.970は評価されるべきであろう。当時のCPBLの台湾人選手は眼鏡をかけた選手も少なくなかったが、ルイスは外国人野手では珍しく眼鏡をかけ、優れたパフォーマンスを見せていた。

f:id:cpbldatabase:20200922161940j:plain

*4

 

布雷(ティルソン・ブリトー) 在籍:統一(06~08) 3B

wRAA平均:28.27

 強烈なインパクトを残した大砲。メジャーでのプレーは96~97年の計92試合のみで、マイナーではSS/2Bを主に守るも、マイナー通算のOPSは.757と長打力が目立つ選手ではなかった。しかし00年のシーズン途中にKBOリーグ・SKに移籍するとアジアの環境が彼に合ったのか、SSに定着し打率.338 15HR 70打点 OPS.932の好成績。02年からサムソン、04年に再びSK、05年にハンファでプレーし計6シーズンで112HR OPS.862をマーク。06年はメキシカンリーグでプレー。妻の出産のために2週間の育休を取りチームを離れたが、その後予定の2週間から育休を延長しようとしたところ球団のオーナーの不満を買い、メキシカンリーグでのプレーが不可能に。再びアジアでのプレーを求め8月から統一に入団。28試合のみの出場ながらチームトップの9HRを放ち4番打者として活躍。翌07年は4月終了時で3HRとシーズン序盤は調子が上がらず、打順を4番から3番に移すとプレッシャーから解放され5月と6月に7HR、7月9HRと打棒が爆発。結果当時のCPBL記録となる33HRをマーク(2015年に高國輝が39HRで更新)、107打点で本塁打王打点王の二冠を獲得。08年は24HRと本数を落とすも、OPSCPBLキャリアハイの1.008でチームの2連覇に貢献。オフには当然ながら再契約を望むファンの声があったが、アジアでのプレーが長くドミニカの家族のところに戻りたいという本人の希望もあり退団し引退。現在は野球界から離れ、運送会社「Pulle Transportation Ltc.」を経営している。

 豪快なフルスイングから飛距離のあるホームランを連発し、また自己管理がしっかりとしておりファンにも優しい性格、外野にメガホンを向けながら歌う応援歌の人気も相まって、統一ファンの中でも最強助っ人との声は名高い。CPBLでの通算BB%が強打者としては低めの8.8%ということも影響してか、今回のランキングでは3位となったが、統一の07~08年の優勝に大きく貢献した外国人野手として、これからもCPBLファンの中で語り継がれることは間違いないだろう。

f:id:cpbldatabase:20200922162637j:plain

*5

 

鷹俠(ルイス・イグレシアス) 在籍:三商(90~96) 3B/SS

wRAA平均:27.13

 CPBL草創期に活躍したパナマの大砲。94~95年に三商で共にプレー、05年には興農で優勝に貢献した戰玉飛(レニン・ピコタ、三商時代の登録名は必可)はいとこにあたる。84~86年までカージナルス、87~89年までフィリーズでプレーするも、最高は1A止まりと力を発揮できず。当時のスカウトの評価は打撃よりも守備に優れた選手で、CPBLでは安定して打率3割以上をマークできるというものだった。その後CPBLが発足する前年の外国人選手ドラフトで三商から3位指名を受け、23歳の若さで台湾でのキャリアをスタートさせると、1年目から18HR 58打点で本塁打王打点王の二冠を獲得。91年はチームメイトの林仲秋本塁打王のタイトルを争い2本差で敗れたが、打率.331で首位打者を獲得。その後93年に右腕の骨棘の手術で8試合の出場に終わった以外は毎年安定感ある活躍を見せ、CPBL最終年の96年には打率.351 31HR 90打点 OPS1.107で本塁打王打点王の二冠を獲得、CPBL初のシーズン30HR以上を達成。97年からはTML嘉南勇士で2シーズンプレーし計44HR 161打点をマーク。その後は00年にメキシカンリーグでプレーした後は長く母国パナマプロ野球リーグでプレーを続け、46歳になる13年まで現役を続けた。

 92~96年までチームメイトだった外野手の哥雅(レオナルド・ガルシア)、2度の首位打者を獲得した康雷(アンヘル・ゴンザレス)と併せて「外籍三劍客」と呼ばれ、台湾人の長距離砲である林仲秋と並んで強打の三商打線を支える存在だった。CPBLの外国人選手としては唯一通算100HR以上(120HR)を達成しており、守備はCPBL入団時はSSとしては広い守備範囲と素早い送球を誇り、失策数は多かったが、豪快な守備を見せファンも多く、94年からは3Bにポジションを移した。CPBL発足時から結果を残し7シーズン同一球団でプレーしたその功績は数字では図ることのできない偉大な足跡である。

f:id:cpbldatabase:20200922162245j:plain

 *6

 

坎沙諾(スリ・カンプサノ) 在籍:味全(94~96) OF

wRAA平均:24.00

 味全歴代で最強の4番打者。マイナーでは4シーズン二桁HR、5シーズン二桁盗塁をマークするも、メジャーでは計3シーズンで通算OPS.584と結果を残せず。しかし来台1年目の94年から長打力をいかんなく発揮。当時の台湾人長距離砲、廖敏雄(時報)と本塁打王のタイトルを争い、カンプサノはシーズン最終戦までトップの廖敏雄とは2本差の22HRだったが、最終戦で1試合3本塁打を放ち逆転。劇的な形でのタイトル獲得となった。また走力でも魅せ21盗塁をマーク。CPBL史上初の「20本塁打-20盗塁」を達成した。95年は打率.259 17HR 56打点 OPS.791と数字を落としたが、翌96年はシーズン全100試合に出場し打率.348 23HR 80打点 OPS1.057とキャリアハイ、加えて26盗塁で自身2度目の20本塁打-20盗塁を達成。翌97年からはTMLに舞台を移し、嘉南勇士で3シーズンプレー。長打力を落とすも俊足は健在だったが、99年は61試合 打率.293 6HR 24打点 OPS.816に終わり、9月21日に発生した大地震の影響で早期帰国。翌00年はメキシカンリーグでプレーし引退。

 味全はカンプサノの入団前まで4番打者を固定できず、4年間で実に10名が務める有様だったが、彼の入団後は3年間4番打者に悩むことがなかったという意味で、その存在は大きかった。また前述した長打力と走力だけでなく、守備では現在でもCPBL歴代トップクラスと呼ばれる強肩でもファンを魅了し、3シーズンでの捕殺は計43を数えた。

f:id:cpbldatabase:20200922125822j:plain

*7

 

羅偉(ヘクター・ロア) 在籍:統一(96~97) 3B/2B

wRAA平均:23.85

 長打と走力を兼備した核弾頭ドミニカン。90~95年までブレーブスマイナーでプレーもメジャー昇格は果たせず。来台1年目の96年に当時のCPBL初となる「初打席でHR」でデビューを飾ると、長打力ある1番打者として能力をいかんなく発揮し、打率.344 17HR 77打点 OPS.974をマークし優勝に貢献。また当時のシーズン三塁打記録を大きく塗り替える13本の三塁打。翌年も成績は落とすも打率.317 12HR 51打点 OPS.881。ドミニカ出身であることから「黑色旋風」の愛称で親しまれ、97年の統一は羅得(フェルディナンド・ロドリゲス)、羅國璋羅敏卿と羅の付く選手が上位打線で活躍していたことからまとめて「羅家班」と呼ばれた。退団後はメキシカンリーグ、米独立リーグ、カナディアンベースボールリーグなどを転々とし03年シーズンを最後に引退。その後彼に関する近況がほとんど伝えられることはなかったが、2014年11月に当時24歳の彼女から別れを切り出されたことに不満を持ち、サトウキビ畑で殺害。その後2016年に懲役30年と賠償金の支払いを言い渡されるという、ショッキングな形で再び彼の名前を耳にすることとなった。

 ポジションはメインが3Bで、サブを2Bとして2シーズンを守った。なお前述したシーズン三塁打記録をマークするなど俊足ではあったが盗塁技術は高くなく、2シーズン計66回企図し成功率は59.1%。中でも97年は14盗塁16盗塁死と盗塁しない方が良いレベルであった。

f:id:cpbldatabase:20200922162542j:plain

*8

 

帝多(フアン・ベル) 在籍:興農(97)-和信(01) SS ※興農時代の登録名は「魚貝精」

wRAA平均:23.55

 両打の遊撃手。9歳年上の兄はブルージェイズカブスホワイトソックスでメジャー通算1702安打、265HRを放ったジョージ・ベル。マイナーではSS/2Bを守る俊足内野手としてプレーし、89年に21歳でメジャー昇格。メジャーでは91年には100試合、93年には115試合に出場するも通算OPS.582と打力不足は否めず、またメジャーでの通算盗塁数もキャリア7年で16盗塁のみと足でもアピールできなかった。96年はメジャー昇格を果たせず、97年に興農に入団。登録名の「魚貝精」は親会社の興農が生産していた健康食品の名称だった。(当時興農は自社の生産する商品の名称を外国人の登録名にする風潮があった)97年は「3番・SS」に定着し94試合 打率.356 16HR 73打点 OPS.997の活躍でSSのベストナインを獲得。また走塁面でも22盗塁を稼いだ。98年からは再びマイナーに戻り、99年は米独立リーグ、00年はメキシカンリーグで2球団でプレーした後、01年に和信で4年ぶりのCPBL復帰、登録名も「帝多」に変更。しかし興農時代のようなインパクトある活躍はできず、31試合 打率.261 4HR 15打点 OPS.801で5月中旬に解雇となった。その後プレーの記録はなく、そのまま引退したものと見られるが、2016年に腎臓病で48歳の若さで亡くなった。

 CPBLはベル以降、長打力を備えた外国人SSがシーズンを通してプレーしていない。近年は外国人枠を投手に割く傾向が強くなったこと、また各球団もSSには鄭昌明、陳瑞振、鄭兆行、王勝偉など堅実に守備をこなし、小技をこなせる台湾人選手を起用する傾向が強くなったのがその大きな理由であろう。しかし長打力あるSSは打高投低の現代でも、他球団とも差をつけられるチャンスではあるので試してみる価値はあるのではないか。

f:id:cpbldatabase:20200922124304j:plain

*9

 

林克(フランシスコ・ロレアノ) 在籍:統一(92~96) 2B/3B

wRAA平均:23.36

 統一で5シーズンプレーした唯一の外国人野手。ドミニカ共和国出身で、86年にエクスポズ入りし翌87年からロイヤルズに移籍。86年~89年まではA、90年~91年は主に2Aでプレー。専ら2Bを守りマイナー通算で377三振/404四球とアプローチの良さ、4シーズンで二桁盗塁をマークするなど走力は有していたが、パワー不足に苦しみ目立った数字を残せず。そんな中、91年から先に統一でプレーしていた卡羅(フアン・カスティーヨ)が長年の友人として彼を球団に推薦し、92年に僅か24歳の若さで入団。しかし当初は打撃コーチとしての入団だったが、後に選手登録されたため物議を醸した。1年目の92年から主に4番として安定した打力を誇り、打率.315 20HR 68打点 OPS1.001で打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。また守備では内外野5ポジションを守る器用さを見せた。翌93年は2年連続で最高出塁率のタイトルを獲得、94年には当時のCPBL新記録となるシーズン41二塁打。CPBL5年目の96年にはキャリアハイの打率.342をマークするなど安定した活躍を続けた。97年からはTML高屏雷公へ移籍し2シーズンプレーし引退。

 174cm、85kgと外国人野手としてはかなり小柄な体格だった。長距離打者でないにも関わらず、マイナー時代と同じく抜群のアプローチの良さを見せ、通算217三振/248四球と四球が三振を上回ったのは、彼のCPBLでのスタッツで特筆すべき点である。ポジションは入団当初は3Bも、94年から2Bメインとなった。

f:id:cpbldatabase:20200922124546j:plain

*10

 

怪力男(ジェイ・カークパトリック) 在籍:興農(98~99) 1B

wRAA平均:23.30

 登録名のように強烈なインパクトを残した左の大砲。91年にドジャース入りし94~96年まで3Aに昇格したが、1Bとしての打力を発揮できずメジャー昇格を果たせなかった。その後台湾に舞台を移し98年に興農入り。開幕から4番に座り出場23試合で10HRと打棒爆発、シーズンでも打率.387 31HR 101打点 137安打でCPBL史上初の四冠を獲得。またシーズン32敬遠、シーズン99四死球はここ数年の極端な打高のシーズンでも破られていない記録であり、興農史上初のシーズン優勝(この年は1シーズン制)の最大の功労者となった。しかし台湾シリーズでは対戦相手の味全から弱点である内角低めを徹底的に突かれ、打率.071(14-1)と大不振に陥り台湾シリーズ優勝を逃す戦犯となってしまった。翌99年も興農でプレーしたが、42試合で打率.234 3HR 14打点 OPS.693と不振に陥りシーズン途中に退団。その後米独立リーグで3シーズンプレーし現役引退。

 1シーズンでの活躍のインパクトはCPBLでも歴代最高。98年の活躍を受け中日もカークパトリックの獲得を検討したこともあった。なおポジションは1Bだが、マイナー時代から捕手の経験もあり、98年には20試合、99年には3試合捕手として出場している。

f:id:cpbldatabase:20200922125017j:plain

*11

 

喬治(ジョージ・ヒンショー) 在籍:時報(94~96)-三商(98) OF

wRAA平均:17.95

 30代後半から台湾で活躍した外野手。マイナー時代は6シーズン二桁HRをマークするなどし83年からは3Aで安定した出場機会を得るも、メジャーでの出場は82~83年の計13試合のみに留まった。89年に中日でプレーし主に3番打者として、53試合 打率.294 8HR 26打点 OPS.802とまずまずの成績も、シーズン途中に左手首を故障し途中帰国し退団。90年に再び3Aでプレーし、その後左膝の手術などによる3年の空白期間の後、94年に前年から時報でプレーしていた愛快(ブライアン・ジャイルズ)の紹介で時報に入団。34歳で故障歴のある選手ということもあり不安の声もあったが、90試合 打率.340 21HR 78打点 OPS.954で打点王を獲得。95、96年も安定した活躍を見せ、CPBL史上初の「3シーズン連続20本塁打-70打点」を達成。特に96年は元巨人の丹尼歐(デニー・ゴンザレス)とのコンビが「喬丹連線」と呼ばれ、両者OPS1を超える打力で他球団の脅威となった。オフに契約交渉で給与面での球団との開きがあり退団。アメリカに帰国後は高校でコーチをしていたが、98年に三商で現役復帰。しかし当時38歳ということもあり衰えは顕著で、64試合 打率.286 5HR 23打点 OPS.767に留まり、シーズン途中に子供の教育問題を理由に退団、現役引退となった。

 30代後半から台湾でプレーし3年間安定した成績を残したのが最大の評価ポイント。加えてDHでの出場も少なく守備もしっかりこなしていた。

f:id:cpbldatabase:20200922124652j:plain

 *12

 

 今回10人を紹介したが、外国人枠が多く野手に割ける時代でもあった90年代の選手が中心となり、やや馴染みの薄い選手がランクインする結果となった。次回の投手編では日本人の職棒ファンもご存じの選手が名を連ねることが想定される。乞うご期待。